「バー軍艦島」は東京は新宿、高田馬場にあるバーです。

Bar GUNKAN島について

Bar GUNKAN島は年始を除いて360日営業しています。
午後9時から午前2時の5時間の営業です。
日替わり(曜日担当制)で、毎日違うスタッフが入っていますので、暇つぶしにお越しください。
定番のビール、カクテルからスコッチウィスキーや自家製果実酒など、色々あります。
東京ではここだけで飲める、岡山の「独歩(どっぽ)ビール」をお出ししております。是非ご賞味あれ!
毎年の恒例のイベントはハロウィンパーティーと年末のそば打ちです。
住所は 〒169-0051東京都新宿区西早稲田2-18-21羽柴ビル2階
電話は 070‐5652-2992

軍艦島(端島)について

1.軍艦島は「軍艦島」ではない。
「軍艦島(ぐんかんじま)」は、正式には長崎県長崎市
(2005年の市町村合併前は長崎県西彼杵郡高島町)
「端島(はしま)」といいます。
島の形が、元日本海軍所属の軍艦「土佐」に似ていることから、
「軍艦島」という俗称で呼ばれています。
2.軍艦島はここにある
「軍艦島」は、東経129°45′、北緯32°39′に位置し、
野母崎の北西、長崎港からは約19kmの海上にある孤島で、
南北が約480m、東西が約160m、面積約6.3ha、周囲約1.2km、海抜47.7m
という小さな島です。
3.軍艦島の起源は幕府の時代
1810年ころ、当時の佐賀藩が石炭の採掘を始め、
1890年(明治23年)に三菱が島と採掘権を買い取り、
1972年ころまで海底炭鉱として操業していました。
4.軍艦島はこうして軍艦になった
元々この島は、草木のない水成岩の瀬でしたが、
炭鉱の発展とともに島の周辺を埋め立てながら護岸堤防の拡張をくり返し、
現在の形になりました。さらに、従業員の住宅の建設も始まり、
1916年(大正5年)以降からは、高層鉄筋アパートが次々に建てられました。
そうして、島内に高層アパートがところせましと並び、
軍艦のような形になったのです。
5.軍艦島のここがスゴイ
大正5年、日本初の鉄筋コンクリートの高層建築物は、
この島に造られました。
炭鉱の最盛期には、この小さな島に5000人以上の人が住み、
その人口密度は当時の東京の約10倍にもなりました。
さらに、島内には作業場や住宅のほかに、
7階建ての小中学校、共同浴場、公園などの公共施設、
映画館などの娯楽施設、料理屋や販売所、神社、手術室完備の病院までありました。
6.軍艦島での暮らし
1918年(大正7年)からは電気が、
1938年(昭和13年)からは電話が、海底ケーブルでひかれていました。
高層アパート群は、建物と建物の間のほとんどが通路でつながっていて、
外に出なくても楽に移動できました。
さらに、建物と建物の間隔が狭いので、雨や風にほとんどあたらずに移動できたそうです。
ただ、風の強くて波が高いときなんかは、
建物の上から潮をかぶるところもあったそうです。
7.そして誰もいなくなった
長年にわたり石炭を採掘してきたこの島も、
昭和30年代後半からのエネルギー革命の波を受けて1972年(昭和47年)に採炭を終了、
1974年(昭和49年)1月15日に正式に閉山しました。そして同年4月20日、
島民は全員島を去ったのです。閉山時の人口は、
最盛期の約5000人から半分以下の約2000人になっていたそうです。
それ以後、この島は、鉄筋建築物だけが残る無人島となりました。
8.軍艦島の現在
近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。
廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る。
現在は無人化により建物の崩壊が進んでいる。
ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。
島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年、高島町(当時)に無償譲渡され、
現在は長崎市の所有である。
建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。
2005年8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、
荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された。
島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、
ある程度は安全面での問題が解決できたため、
島の南部に整備された見学通路に限り、2009年4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった。
解禁後の1ヶ月では合計4601人の観光客が端島に上陸している。
なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、
長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる。
一部で世界遺産への登録運動が行われ、
2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと
世界遺産への登録を支援することを決定した。
2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として
世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、
2009年1月に記載された。